三愛会これまでの歩み

法人設立から50年あまり、それは地域の皆さまと同じ景色に立ち、同じ未来を描き、共に歩み続けてきました。

History of SANAIKAI History of SANAIKAI
1948
昭和23年3月

大分市西部高瀬に
安東有二郎診療所を開設

終戦から3年後。日本ではこの年の7月30日、「医療法」が公布された。『国民は、良質かつ適切な医療の効率的な提供に資するよう、医療提供施設相互間の機能の分担及び業務の連携の重要性についての理解を深め、医療提供施設の機能に応じ、医療に関する選択を適切に行い、医療を適切に受けるよう努めなければならない(6条の2の3)』。医療の根本となる法律ができたこの年、大分市西部の高瀬の地に、「安東有二郎診療所」が開設した。のちの三愛会初代理事長となる、内科医師の安東有二郎(現会長・義父)が「三愛病院」、そして「現:社会医療法人 三愛会」の第一歩を踏み出した瞬間だった。

初代理事長・安東有二郎
初代理事長・安東有二郎
当時の診療中の様子
当時の診療中の様子
1948年頃の安東有二郎診療所
1948年頃の安東有二郎診療所
1968
昭和43年12月

鉄筋コンクリート造4階建ての病院を建築

 1960年代、大分市では多くの市町村が合併し、大分地区が新産業都市に指定されるなど、高度経済成長期として全国的に発展の目覚ましい時期であった。地域のニーズに応える事業拡大として、当時の診療所の地に「三愛病院」を建築。整形外科医・國東易徑(現:国東整形外科 理事長)を迎え、稙田地域の医療の一端を担う決意を新たにした。

1970
昭和45年9月9日

「医療法人社団 三愛会 三愛病院(60床)」として法人化

この年、60床の病院として「医療法人社団 三愛病院」が誕生する。安東有二郎、國東易徑の2名の医師を中心に始まった「三愛病院」は、これより稙田地域住民の健康を見守る大きな拠点として、改めて歴史を紡ぎ始めた。

それからすぐに、腎臓・透析・循環器の専門医である國東公明(現:国東循環器クリニック 理事長)が「三愛病院」に合流。血液透析室を開設した。当時は透析の施設は少なく、市内のみならず多くは県南から患者が訪れた。この3名と、その周りを固める多くのスタッフたちが、今の「三愛病院・大分三愛メディカルセンター」の礎を築いている。

1979
昭和54年6月

新体制で地域と三愛病院を支える

イラン革命に端を発した、第2次オイルショックが起きた激動の年、1979年。三愛病院では、國東易徑医師が「国東整形外科」、國東公明医師が「国東循環器クリニック」を開設し、地域と「三愛病院」を新たな形で支える体制となった。6月、初代理事長の女婿で、現会長である半澤一邦が2代目の理事長に就任。病院開設から約10年、「三愛病院」は大きな転機を迎えた。世界は混乱を極めていたものの、この出来事は、三愛のさらなる発展の始まりとなるものだった。「三愛病院」はこの年よりさらに、半澤一邦と数多くの優秀なスタッフのもと、地域の病院として活躍していく。

1979年当時の半澤一邦
1979年当時の半澤一邦
三愛病院周年国東整形・国東循環器クリニック落成記念
三愛病院周年国東整形・国東循環器クリニック落成記念
1989
平成元年1月

野津原診療所を開設 病床数19床へ

庄内診療所に続き、旧野津原町の要請を受け、「野津原診療所(現:のつはる診療所)」を開設(当時は外科・胃腸科・内科・整形外科の診療科で病床数は19床)。現在も野津原地域の医療の第一線に立つ。

平成元年12月

脳神経外科病棟を開設病床数140へ増床

元号は昭和から平成に変遷し、時代の変化に合わせて、医療の形も大きく変わっていく。庄内・野津原のサテライトクリニックの存在と、さらなるニーズに応えるため、「三愛病院」は脳神経外科を開設。そして140床への増床を実行する。当時の職員数は約130名。延床面積4,703.18m²の広さに、西病棟・東病棟に分かれて数多くの設備を備え、“断らない医療”を胸に平成元年の年を駆け抜けた。

増改築時の三愛病院
増改築時の三愛病院
当時4階にあった喫茶室
当時4階にあった喫茶室
当時のリハビリテーションルーム
当時のリハビリテーションルーム
1994
平成6年5月

地域住民を支える体制を
さらに強固なものに

三愛会は設立以来、20年以上にわたり、稙田近隣地域の健康を守る存在として力を注いできた。しかし、当時すでに叫ばれていた「高齢化社会」の波を受け止めるべく、医療のみならず介護についても目を向けなければならなかった。1994年、「三愛病院」から徒歩数分の地に、「介護老人保健施設わさだケアセンター」を開設。看護・医療的管理のもと、介護やリハビリ、その他必要な医療や日常生活のサポートなど、さまざまな形で地域住民を支える体制が、また一つ強固なものとなった。

わさだケアセンター(2004年当時) 2005年頃の野立て看板
完成当時のわさだケアセンター
平成6年12月

訪問看護ステーションを開設

『在宅』というワードが注目されはじめた時代。1996年には「在宅介護支援センター」を開設しているが、それに先立ち、在宅医療への足掛かりとして、「わさだ訪問看護ステーション」を、わさだケアセンター内に併設(現名称:三愛訪問看護ステーション)。訪問看護・訪問介護・訪問リハビリなど、在宅での医療介護は、2000年代になってからもその重要性が議論になっている。当時より、三愛会は各事業所内での連携をつよめ、切れ目のない医療介護をめざし続けている。

1999
平成11年10月

受け入れ体制の強化のため179床へ増床

三愛への医療介護のニーズは、年を追うごとに増加。それに応えるべく、1997年には人工透析室を設置。1970年代の開設当時から続く、透析患者への対応を強化した。医師、診療科も増えていく中、1999年、病院は179床まで増床し、数多くの患者を受け入れ続けた。

2000
平成12年4月

二次救急医療施設の指定
居宅介護支援事業を開始

 2000年代に入り、「三愛病院」はいわゆる急性期病院としての役割を確立しつつあった。地域の救急医療の一翼を担う。この年、「三愛病院」は二次救急医療施設として指定され、24時間体制での患者受け入れ体制を整えている。また「三愛会」としては、2000年の介護保険創設と共に居宅介護支援事業を開始。「介護保険相談センターさんあい」を病院内に併設した。「住み慣れた地域」で最期まで過ごす、そんな地域住民の要望一つ一つを聞き取り、支援をつないでいった。

2006
平成18年6月

診療改革元年と位置づけ
大分三愛メディカルセンターへ改称

病院開設から36年。社会福祉法人も設立し、地域の介護体制にも積極的に関与した。2000年代に入り、今のままの存在で本当に生き残れるのか、という議論が生まれ始めた。稙田地域の人口増加は顕著であり、急性期医療の需要は今後も増えると予想し、救急医療、そして特化した専門医療を2大柱として、地域完結型医療の一翼を担う方針を固めた。中長期計画を策定し、診療改革元年と位置づけた。

2006年、満を持して「大分三愛メディカルセンター」へと改称し、再開発地区内に新築移転を果たした。2004年には地域医療連携室(現:地域連携センター)、2005年には診療情報管理室を開設し、診療の基盤強化に努めている。

大分三愛メディカルセンター(2005年建設時)
大分三愛メディカルセンター(2005年建設時)
2008
平成20年2月

大分DMATおよび日本DMAT指定病院として認定

 2006年の新築移転に伴い、救急医療充実にさらなる力を注ぐ。救急科専門医の招聘などを経て、ER型救急での対応やDMAT(災害急性期に活動できる機動性を持ったトレーニングを受けた医療チーム)の活躍により、大分DMATおよび日本DMAT指定病院の認定を受ける。当院のDMAT隊員は、のちに2011年の東日本大震災、2016年の熊本地震においても現地入りし、被災者のサポートを行っている。

平成20年2月

有料老人ホームさんさん
さんあいヘルパーステーションを開設

 旧三愛病院の地に、病院を改築する形で誕生したのが、住宅型有料老人ホーム「さんさん」。それに併設する形で、「さんあいヘルパーステーション」、介護保険の中核を担う、訪問介護を行う施設が開設された。高齢化問題と共に不安視される、認知症患者の増加の問題。連携する事業所を増やすことで、三愛会は地域包括システムの構築に一躍買い、発展を続ける。

有料老人ホームさんさん、さんあいヘルパーステーション外観
有料老人ホームさんさん、さんあいヘルパーステーション外観
2009
平成21年11月

「社会医療法人」化し地域の救急医療を担う

2009年6月、森義顕が院長に就任。標榜診療科も21を数え、病院新築後も順調に医療体制を構築し、救急搬送件数も、このころには1500件前後に増加していた。この年の11月、「救急医療、災害医療」の要件を満たし、三愛会は社会医療法人化を果たした。1970年の三愛病院開設以来、“断らない医療”をモットーに地域の駆け込み寺的な役割を担ってきた「大分三愛メディカルセンター」が、「社会医療法人 三愛会」として再始動した瞬間だった。

2013
平成25年9月

「脳外科」「消化器科」「整形外科」を3本柱に救急への特化をめざす

現状の近隣地域の医療体制を鑑み、「脳外科」「消化器科」「整形外科」を3本柱にし、救急への特化をめざす。これら3本柱をセンター化することとし、まずは常勤の脳神経外科医師を3名確保し、体制を充実。2013年9月にスタートした脳卒中センターは、脳卒中治療におけるt-PA治療や脳血管内治療などにも積極的に取り組み続けている。

2015
平成27年10月

三島康典が理事長に就任
半澤一邦が顧問に就任

 約36年もの間、2代目三愛会理事長を務めた半澤一邦が退任(現:会長)。社会医療法人 三愛会・3代目理事長として、三島康典が就任した。21世紀に入り、2006年の新築移転を経て、さらなる時代の変遷が目まぐるしく繰り返される中、三愛会に新たなリーダーが誕生した。すでに三愛会は45周年の年。次の時代に向け、設備、システム、そして人材も日進月歩で洗練されていく。

左:半澤一邦、右:三島康典(2016年撮影)
左:半澤一邦、右:三島康典(2016年撮影)
2016
平成28年5月

超音波内視鏡を使用した高度な医療提供を実現

2013年から翌年にかけて、3本柱である脳卒中センター、運動器センター(整形外科)とともに、「消化器病センター(消化器外科・消化器内科)」がすでに立ち上げられていた。一般的な内視鏡検査・治療だけでなく、県内では導入施設が少ない超音波内視鏡を使用した高度な医療も提供できる。2016年、病院の東館として「三愛総合健診センター(次頁参照)の開設と共に、同館一階フロアにセンターを移転。「消化器病・内視鏡センター」として、以前とは比べ物にならない充実した設備で内視鏡診療体制を確立した。

健診による早期発見・早期治療をめざして

医療業界で叫ばれるワードの中に、「未病」「健康寿命」といったものが出現してきた2000年代。大分三愛メディカルセンターでは、「健診」による疾患の早期発見・早期治療が一つの鍵になると考え、2016年、病院併設型の健診施設「三愛総合健診センター」を開設。地域の健康増進を担うと共に、健診率向上にも寄与していった。健診受診率の低迷が問題視される中、最新の機器を準備、男女別フロアの設置、女性スタッフ対応重視など、より気軽に受診できる体制を実現している。

三愛総合健診センター(外観)
三愛総合健診センター(外観)
三愛総合健診センター(男女別待合室)
三愛総合健診センター(男女別待合室)
2017
平成29年4月

たばる事業所開設

田原地域周辺の医療・介護の拠点であった「善和会」の事業を継承。田原拠点としてクリニック・介護老人保健施設・グループホームの3つの事業所を開設した。「大分三愛メディカルセンター」をはじめ、三愛会の事業所との連携により、さらに広い地域の健康・日常を守り続けている。

2019
平成31年3月

三愛呼吸器クリニック開設

稙田・田尻近辺には、呼吸器を専門とする診療所がない。地域からの呼吸器疾患に関するニーズに応えるべく、三愛会に新たなクリニックが誕生した。「三愛呼吸器クリニック」では、“リハビリ併設型呼吸器専門クリニック”を掲げ、呼吸リハビリテーションに特化。最新の機器と最新の治療法を常に求め、三愛会各事業所との連携で、患者のトータルにケアしている。

病棟再編により地域包括ケア病棟を増床

医療・介護業界の動向の変化は、年を追うごとに激しくなり、病院もそれに対応していかなければ生き残れなくなる時代。「大分三愛メディカルセンター」では、地域包括ケアシステムの構築による充実した入院体制を整備するため、約20年ぶりに病床を増加させ病棟を再編。安心した医療体制を追求し、地域包括ケア病棟を11床増やし、過去最大の190床となった。

2020
令和2年1月

コロナ対応の3年間

未曽有のコロナ禍。大分三愛メディカルセンターは、第1波より発熱外来を設置し、地域の「発熱難民」を受け入れてきた。同時期よりコロナ罹患患者の入院受け入れも開始。その数は3年半で約900名に迫る。ワクチン接種や、クラスターが発生した施設へのサポート、メディアを通じた情報発信など、全力を注いでコロナに立ち向かった。

三愛会のこれまで、
そしてこれから。

地域の皆さまと同じ景色に立ち、同じ未来を描き
そして共に歩み続けて50年あまり。
三愛会は、これからも地域の皆さまとともに進化を続けます。